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京焼・清水焼の歴史(誕生)

2020/06/12

京焼・清水焼とは、古都・京都で作られるやきものの総称。江戸時代初期から今日に至るまで、
京都ならではの芸術性の高い作品が生まれ続けています。

「京焼」という言葉が記録に初めて登場したのは、今から約400年前のこと。博多の豪商・神屋宗湛の日記に「肩衝京ヤキが茶会で使用された」と記されています。宗湛が日記に書いた京ヤキとは、桃山時代に作られていた千利休好みの楽焼だと考えられています。ただし楽焼は今日の京焼・清水焼には含まれてはいません。

京焼・清水焼のルーツは、江戸時代初期に仁和寺の門前に窯を開いた丹波出身の陶工・野々村仁清が作った色絵陶器です。華麗で雅びやかな仁清の作品は御室焼あるいは仁和寺焼として大いにもてはやされ、京都のやきもの界にも大きな影響を与えることになりました。それまでの「写しもの」から多彩な器形と華やかな色彩の「色絵もの」へと作風が変わっていったのです。

その後、京都の呉服商の家に生まれながら陶工の道を志した尾形乾山が、仁清の作風をさらに発展させていきます。兄である有名な日本画家の光琳が絵を描き、乾山が詩文を賛した兄弟合作の絵皿など、これまでにない芸術性の高い作品を数多く残しました。仁清、乾山の2人の巨匠をはじめ、江戸時代初期から中期にかけて作られたやきものを古清水と言います。

仁清と乾山が活躍した時代を京焼の「第一次黄金期」だとすると、「第二次黄金期」は奥田頴川(えいせん)をはじめとする名工たちが腕を振るった江戸時代後期だといえます。特筆すべきは、本格的に磁器の製作が行われるようになったということ。その新風を吹き込んだのは頴川でした。呉須赤絵の模様を最も得意とした頴川は、非常に巧妙で上品な印象の残る磁器をいくつも焼き上げています。

色絵陶器の焼成が伝統となっていた京焼に本格的な磁器焼成という新たな伝統を築いたほかに、頴川にはもうひとつの功績があります。それは多くの門下生を輩出したことです。後に九谷焼の再興にも尽力する青木木米(P94参照)のほか、仁阿弥道八、銀古堂亀祐、三文字屋嘉介といった名工たちが頴川の元を巣立っています。彼らはそれぞれのスタイルで作陶に励んだことで、京焼は全盛を迎えることになりました。

やきものハンドブックより
制作:「陶器の日」事業4団体協議会
・日本陶磁器工業協同組合連合会
・日本陶磁器産業新興協会
・TOZIX・ジャパン
・日本陶磁器卸商業協同組合連合会

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