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有田焼の歴史(誕生)

2020/06/08

佐賀県の西部に位置する有田町は、人口約2万人の小さな町。1616年に陶石が発見され、
日本で初めて磁器が焼かれた町として知られています。

直接関わったわけではありませんが、有田焼の歴史を語る上で欠かすことのできない歴史上の人物がいます。その人の名は、豊臣秀吉です。織田信長亡き後の1591年、ついに天下統一を果たした秀吉は、明国(現在の中国)の征服を目論み、2度にわたって朝鮮出兵を行っています。朝鮮から日本へ引き上げる際、佐賀藩主の鍋島直茂は朝鮮人陶工たちを連れて帰ってきました。その中の1人が李参平(り・さんぺい)。和名を金ヶ江三兵衛(かねがえ・さんべえ)といい、後に有田で陶石を発見し、「有田焼の祖」と呼ばれた人物です。

日本にやって来た参平は佐賀県の中央部にある多久で窯を開き、作陶していましたが、なかなか思うような作品を作ることができなかったため、良質な陶土・陶石を探す旅に出ました。多久を出て、伊万里を経由して有田に着いた参平は、有田の泉山で白磁鉱を発見します。1616年のことでした。泉山の白磁鉱は量も質も十分に参平を満足させるものでした。秀吉の朝鮮出兵がなければ、参平が日本へ来ることも、有田で陶石が見つかることもなかったかもしれません。

参平らは早速、有田の地で磁器の製造を始めました。初期の有田焼は、厚めの白い素地に藍色一色で模様を描いた染付がほとんど。どちらかと言えば、素朴な印象を与えるものでした。

有田で色絵付けが始まったのは1640年代。初代酒井田柿右衛門が赤色を基調とした赤絵を生み出します。それまでは藍色一色だった有田焼が多色塗りとなったことで、鮮やかで洗練された器へと変貌を遂げたのです。

1653年、オランダ東インド会社によってヨーロッパ諸国への輸出が開始されます。有田の北にある伊万里港で荷物の積み出しが行われたため「伊万里焼」とも呼ばれました。ヨーロッパでは「IMARI」と称された有田焼は、王侯貴族の間でステータスシンボルになりました。絢爛豪華な金襴手のやきものは、純金と同じ値段で取引されたという逸話があるほど。「IMARI」の名は世界中に知れ渡りました。

やきものハンドブックより
制作:「陶器の日」事業4団体協議会
・日本陶磁器工業協同組合連合会
・日本陶磁器産業新興協会
・TOZIX・ジャパン
・日本陶磁器卸商業協同組合連合会

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