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萬古焼 の歴史(誕生)

2020/05/25

生産量日本一の土鍋や紫泥の急須などが有名な萬古焼。
茶の湯好きの商人が自ら茶器を焼くようになったのがはじまりと言われています。

萬古焼は、江戸時代中期に三重県桑名市の豪商・沼波弄山(ぬなみ・ろうざん)がはじめました。地名がそのままやきものの名前になっているところが多い中、萬古焼は弄山が「いつの世までも残るように」と自身の作品に押した「萬古」または「萬古不易」の印が由来といわれています。

萬古焼は、食器や花器など生活を彩る器から家電のパーツや工業製品の型に至るまで、実に多種多様なやきものを作っている産地です。「萬古の印があることが一番の特徴」といわれるほどです。それは陶土などの資源が乏しい環境で新しい技術を磨き、創意工夫を凝らして、その時代時代の人々のニーズを形づくってきた産地の歴史でもあります。現在も四日市市と菰野町には100社を超える萬古焼の窯元や問屋があり、全国でも有数の窯業地となっています。

創始者の弄山は桑名でも有力な回船問屋を営む商人の家に生まれ、幼い頃から茶道に親しむ教養人でした。茶の湯好きが高じて、元文年間(1734~40)、現在の朝日町小向(おぶけ)に窯を築き自ら作陶するようになったのが萬古焼のはじまりといわれています。
 弄山は京焼の技法を基に、内外の茶陶の写し物と、当時珍しかった更紗模様やオランダ文字等をあしらった異国情緒あふれる意匠の作品を生み出し、好評を博しました。後に、江戸・小梅村(現在の東京都墨田区)でも開窯してとても評判になり、将軍の御用達や御成りもあったと伝えられています。

弄山の萬古焼は「古萬古」または「江戸萬古」と呼ばれています。弄山の死後は後継者がおらず、しばらくして萬古焼は一時途絶えてしまいました。

弄山の没後から半世紀後、桑名の森有節(ゆうせつ)・千秋(せんしゅう)兄弟が萬古焼の復興を目指して萬古焼発祥の地・朝日町小向に開窯します。工芸的な才能があり、研究熱心だった2人は、鮮やかなピンクの腥臙脂釉(しょうえんじゆう)や木型を使って急須を成形する型萬古などを考案しました。中でも型萬古は、急須の量産を可能にした画期的なアイデアで、ほかの地方にも伝わり、東北地方や関東地方にも萬古焼が誕生しました。

こうして有節らが再興した萬古焼は「有節萬古」と呼ばれます。

やきものハンドブックより
制作:「陶器の日」事業4団体協議会
・日本陶磁器工業協同組合連合会
・日本陶磁器産業新興協会
・TOZIX・ジャパン
・日本陶磁器卸商業協同組合連合会

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