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常滑焼の歴史(誕生)

2020/05/20

 

愛知県知多半島の中央西岸にある常滑市は、日本古来のやきもの技術を継承する「日本六古窯」のひとつ。その歴史は古く平安時代にさかのぼります。

 

 知多半島で窯を使ってやきものが作られるようになったのは平安時代末期のこと。半島にある丘陵地という丘陵地には、ほぼすべてに穴窯が築かれました。これらは知多半島古窯跡群と呼ばれ、その数は2000基とも3000基とも言われています。それらの穴窯では、山茶碗や山皿、壺が焼かれました。この当時、知多半島で作られていたやきものは「古常滑」と呼ばれています。

 皿、茶碗、片口鉢、3本の筋が入っていた三筋壺(さんきんこ)、常滑独特の器種である経甕(きょうがめ)、大甕(おおがめ)…。「日本六古窯」の中で最大の生産地であった常滑では、鎌倉時代に入ると、さまざまな種類のやきものが作られるようになっていきます。その特徴は大きさ。高さのある大きな器が主に生産されるようになります。壺や甕(かめ)の中には高さが50cmを超えるものもありました。

 室町時代になると、知多半島全域に点在していた窯が常滑へと集約されるようになっていきます。それに合わせて、生産されるやきものは、大型のものがほとんどを占めるようになりました。常滑近辺の窯で焼かれた大型の壺や甕は、常滑港へと集められます。そこで船へと荷積みされ、たくさんのやきものを積んだ船は、北は東北から南は九州まで、日本全国各地の港へと向かいました。こうして常滑焼は全国へと広まっていったのです。

 知多半島全域に普及していた地下式の穴窯に代わり、この頃からは新しいタイプの窯が普及するようになります。新しいタイプの窯とは、半地上式の大窯。常滑焼の特徴である大型の壺や甕も、一度に大量に生産できるようになったのです。作られるやきものは、褐色の自然釉の真焼け、「赤物」と呼ばれた素焼きの甕など、日常生活で使用される生活雑器が多くなっていきました。江戸時代になると、生産されるやきもののラインアップに、真焼けの陶芸品が加わります。

 常滑焼の代名詞とも言える朱泥製品が焼かれるようになったのは、江戸時代後半のことでした。さらに明治時代に入ると機械が導入されるなど、技術の革新とともに、常滑焼はさらに発展していくこととなります。

 

やきものハンドブックより
制作:「陶器の日」事業4団体協議会
・日本陶磁器工業協同組合連合会
・日本陶磁器産業新興協会
・TOZIX・ジャパン
・日本陶磁器卸商業協同組合連合会

 

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