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瀬戸焼 の歴史(誕生)

2020/05/05

やきものの代名詞として広く一般にも使われている「せともの」。
その発祥地である愛知県瀬戸市では、1000年ほど前から陶器が作られるようになりました。

瀬戸焼が作られるようになったのは、いまから1000年ほど前の平安時代後期(10世紀後半)のこと。古墳時代から稼働していた猿投窯の流れをくむ窯で、灰釉陶器が生産されるようになったのが、始まりだと言われています。その後、11世紀末期には釉薬をかけない山茶碗が作られるようになりました。瀬戸焼産地に隣接する美濃焼と同じような流れをたどっていることが分かります。

一度は釉薬を使わなくなりましたが、12世紀末期になると再度、釉薬を使った陶器が作られるように。「古瀬戸(こせと)」と呼ばれ、鎌倉時代から室町時代にかけての約300年間にわたって国内で唯一の釉薬を使った施釉陶器として日本全国に流通するようになりました。

 ここで大きな役割を果たした人物が一人います。その名は、加藤四郎左衛門景正。今でも瀬戸市民から親しみを込めて「藤四郎(とうしろう)さん」と呼ばれる人物です。景正は、鎌倉時代前期の1223年に曹洞宗の開祖として知られる道元とともに宋時代の中国に渡り、やきものの技法を学び、6年後に帰国しました。その後、やきもの作りに適した土を求めて全国各地を巡る中で、良質な土が採取できる場所を見つけたのが瀬戸でした。窯を開いた景正は、釉薬を施した本格的な陶器作りを開始します。これが「古瀬戸」の始まりです。今に続く瀬戸焼の創始者として、景正は「陶祖」とも称されています。景正の働きにより全国へと広まった瀬戸焼でしたが、江戸時代に入って九州有田産の磁器が急成長を見せると、衰退の一途をたどるようになりました。

 そこで立ち上がったのが加藤民吉です。1804年に尾張藩などの支援を受け、単身有田に渡り、いくつかの窯元で修行。磁器の技法を習得します。3年間の修行を終えると、瀬戸へ戻り、学んだ技を伝えました。そのおかげで、従来の陶器に加え、染付磁器の生産が盛んに行われるようになり、瀬戸は再び活気を取り戻すことができたのです。こうした活躍が評価され、民吉は「磁祖」と称されるようになりました。

やきものハンドブックより
制作:「陶器の日」事業4団体協議会
・日本陶磁器工業協同組合連合会
・日本陶磁器産業新興協会
・TOZIX・ジャパン
・日本陶磁器卸商業協同組合連合会

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